生気法とは

気功の一種ですが、
私たちが今までに見聞きしたような中国気功ではなく、
約100年前に、日本人の手によって開発された、日本生まれの健康法です。

石井常造
画像出展:wikipedia

生気法の産みの親は、
石井常造(いしいつねぞう)という人物。

会津藩の士族の家に生まれ、
日本陸軍の少将にまで上り詰めました。

石井はその後、東京に「生気療養研究所」を設立し、
生気法の普及に尽力。

通信教育用の冊子も作り、最盛期には約10万もの人々が、
日々「生気法」を実践していたといいます。

 

しかし、戦争の激化、各都市への空襲により、
各地にあった拠点は消滅。

「生気法」絶体絶命の中、石井常造の高弟、小原辰三氏が孤軍奮闘。
見事、名古屋の地において復活を遂げます。
(中心地テレビ塔のすぐ東に、生気道場を作るほど活況)

しかし、カリスマ的存在だった、小原辰三氏が亡くなると、
その影響力はしだいに低下。
ふたたび「生気法」は岐路に立たされます。

 

そのような中、
生気法を改良・発展させる人物がでます。川瀬保孝氏です。

健康維持・回復だけでなく、
難病や奇病に立ち向かうための、「川瀬生気法」を確立されたのです。

私は幸運にも、川瀬先生が70歳くらいの頃に直接指導を受けました。

 

その後、自身の難病や薬害を乗り越えた経験から、
「生気法」の可能性というものを肌で感じ、
いつかは、本にして、世に出したいと考えて参りました。

どうぞ、100年の歴史がある、
日本生まれ、日本育ちの「生気法」にふれてください。

あなたが今、考えている以上に、
簡単で、シンプルな健康法です。

一般的な気功のイメージは捨ててください。

子供から大人まで、
誰もができる健康法(ワザ)なのです。

 

石井常造 先生  「生気法」産みの親
小原辰三 先生  「生気法」中興の祖
川瀬保孝 先生  「川瀬生気法」を開発
川瀬先生には、3度直接ご指導をいただきました。
1度目は、ひとりで。2~3回目は、妹と参りました。
その後、妹の出産により、中断。
数年後、再びお願いに参りましたが、
私の希望する夜の時間帯に、指導するのが難しいとのことでした。
数ヵ月後…諦めきれず、再度ご連絡したのですが、先生はお亡くなりになったとのこと…

妹が先生の言葉を覚えておりました。

「おふたりはお若いので、世の中に生気法を広めてください」と。

あれから10年以上かかってしまいましたが、
生気法復活のため、微力ではございますが、がんばって参ります。

 

このページのおわりに、
「名古屋生気倶楽部創立60周年記念集」より、ご紹介させていただきたい一文があります。
小原辰三氏の一族にあたる方の回想より。

 

「当時、私は日大専門部歯科の学生でしたが、九段の生気研究所には学校帰りにいきますので、
遅くなりがちで、それでも石井先生は待っていただいたことが、何度もありました。
先生が言われるのには、たとえ、10分でも15分でもよいから、
しっかりやりなさいとのことで、頭のさがる思いでした。

(略)

当時は、近衛公爵の奥様と、加納治五郎さんの奥様は何時もお二人でおいでになられていたし、
伊集院さんもおられ、皇族の方も病気になられると侍従武官の方がこられ、
ご自分も運動して指導を受けられて帰られるということがありました…」

 

う~ん、近衛って、近衛文麿のことですよね。きっと。
石井常造は、少将でしたが、賊軍(会津)出身でなければ、もっと上に上り詰めていたのかも…
少将の給金は、現在の知事と同じくらいだそうです。
武官の存在感というのは、現代に生きる私たちには、ちょっと計りがたいものがありそうです。

日本人によって、生み出された生気法。
生気法は、奥が深い…と感じるのは、私だけではないでしょう。

何をするの?